開山800年 大聖護国寺

大聖護国寺略歴

  ※宗 派  真言宗豊山派
  ※本 尊  不動明王
  ※開 山  健保四年(1216年) 定弘和尚

 当寺は、神通山遍照王院大聖護国寺と称し、真言宗豊山派に属します。東国に五十三ヶ寺の末寺を有す地方の大寺院でした。

 開山定弘和尚は、健保四年(1216年)紀伊国高野山清浄心院より本尊愛染明王及び不動明王を奉じ、上野国八幡の地において大聖護国寺を創建しました。以後、清浄心院からは、二世圓喜、三世壹暈、四世淳助、五世淳尊まで、続けて当寺に転住しています。
 当寺は、国主である上野国和田城主和田八郎信業及び、北条氏政、徳川家康公等の深い崇敬を受け朱印を授かりました。

 時代は下り、桂昌院(徳川五代将軍綱吉公の母君)は当山二十四世亮賢和尚を篤く信頼し、延宝二年(1674年)寅年五月、本尊不動明王を始め、五大明王、三十六童子等多くの仏像を寄進し、山門・客殿及び不動堂を建立、その他仏具・灯篭・掛け軸・宝剣などを寄進しています。桂昌院は綱吉公が五代将軍に就いたのを機に、天和元年(1681年)に亮賢僧正を江戸護国寺の初代住職として迎えました。また、第二十五世賢広(けんこう)も護国寺第二世として迎えられています。

 桂昌院の篤い信仰から当山は隆盛を誇りましたが、天保八年(1837年)十二月十五日、不動堂脇から出火し、伽藍を消失しました。現在の本堂は昭和五十三年に建立されたものです。平成二十七年(2016年)は開山八百年にあたり、客殿新築はその記念事業と位置付けられます。
   
桂昌院

 徳川三代将軍家光の側室。お玉の方。慶安四年(1651年)に家光の逝去とともに落飾し大奥を離れ、筑波山知足院に入り、以後桂昌院と名乗る。

 四代将軍・家綱の死後、延宝八年(1680年)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸に入った。貞享元年(1684年)に従三位を、元禄十五年(1702年)二月には女性最高の従一位の官位を賜る。宝永二年(1705年)六月、七十九歳で没  

 若い頃より亮賢和尚に帰依し、自身の祈願寺となる江戸高田薬園の地・護国寺の初代住職として招いた。
 なお、将軍の生母になったことから「玉の輿」の語源とされる。