護国寺と大聖護国寺 〜桂昌院さま寄進の仏像〜
当寺に伝わる仏像
 当山には、五十体ほどの仏像が伝えられています。その中、本尊不動明王を始め、金剛夜叉明王、大威徳明王、軍荼利明王、降三世明王(合わせて五大明王と呼びます)、および三十六童子(不動明王の三十六人の眷属)は、延宝二年(1674年)桂昌院さまより寄進されたもので、亮賢僧正が大聖護国寺の住職を務めていた時期となります。寄進された延宝年間は、桂昌院さまが綱吉公と共に館林藩江戸屋敷に居住していた時期になります。

 桂昌院さまは、綱吉公が将軍職に就かれてから全国の寺社に対し積極的に伽藍整備などの寄進を進めますが、綱吉公が館林藩主の時代からすでに寺社に寄進している様子が分かります。

 本尊を含めた五大明王は、実は最近まで桂昌院さまの寄進とは知られていませんでした。三十六童子に関しては桂昌院さまの寄進と伝承されていたのですが、五大明王の記録は残っておらず、造立された年代も不明のままでした。本堂改築に合わせ五大明王も修復することになり仏師の手に委ねたところ、暫く後に次のような連絡がありました。

 「本尊不動明王の(仏像の内部をくり抜くこと)にが残っており桂昌院の名前が見える。また他の明王も同様に内部に桂昌院の名前が記され、一部には胎内文書が残っている」。全く想像もしていなかったこの報告に驚き、一刻も早く自分の目で確かめたいと浮き足立つ思いでした。長らくその由来が忘れ去られていたこれらの諸仏は、桂昌院さまの亮賢僧正への敬慕の念と仏教への篤い信仰に裏付けられ大聖護国寺に奉納されたものだったのです。

 

本尊不動明王
 本尊不動明王は、像高約118cm、岩座・火炎後背を含めた総高は約215cmとなります。童顔相で頰はふっくらと張りがあり、やや眉間にしわを寄せ厳しい目で睨めつけます。火炎後背は複数の炎が体躯を包み込み、複雑な構成で立体的に不動明王を包み込みます。彩色は表面に残された顔料を元に再現し、体躯は黒色、火炎は深紅で、宝剣・頭部・持物の金箔は当時のままです。

 寄進時の威厳に満ちた姿が蘇りました。像の胎内には仏舎利が納められ、また判別不能な紙片が胎内の下部に残っていたことから胎内文書も納められていたと思われます。比較的破損は少なかったため修復は短期間で済み、昨年の11月に無事当山に戻りました。

 

胎内墨書と胎内文書・胎内納入品

 木造の仏像は、乾燥して割れを防ぐために内部が空洞になっていることが多くあります。この空洞部分に直接文字が書かれている場合があり、これを「胎内墨書」と言います。また、造立の経緯を書いた文書や願文、小さな仏像や舎利(水晶の粒)、木札などの品物を納める場合もあり、これを「胎内文書」「胎内納入品」を言います。

 いずれも、その像の作者(物資)や造立年、願主、願文などが記されているので、その仏像の経緯や寺院の歴史を知るために非常に重要な手懸りとなりますが、普段は決して見ることは出来ず修復などの機会でない限り目に触れることはありません。

 

 

大威徳明王の胎内文書
 修復過程の中、大威徳明王の内部に胎内文書がほぼ当時のままで現存していることが分かりました。金剛夜叉明王の内部にも一部残り、その他は鼠等の被害により散逸したものと思われます。大威徳明王の内部に納められた胎内文書は、綱吉公、桂昌院、亮賢僧正の願文を始め、桂昌院の弟である本庄宗資や侍女たちの願文が残され、また地域の有力者と思われる写経なども含まれていました。

 

 大聖護国寺に伝わる仏像の多くは破損が激しく、今後も修復の為に時間が必要となります。

 今回の修復事業は何ものにも変えがたい重要な意味を持ちました。胎内文書や胎内墨書が確認でき、幾多の困難を経て大切に伝承された諸仏であることを理解したばかりでなく、造立された当時の願いを肌で知る貴重な体験でした。とくに願文は、侍女たちが自身の文字と言葉で思いを書き綴り、一体の仏像にも多くの願いが込められ造立されていること改めて知る思いでした。
 修復されている仏師が私に興奮気味に言っておられた言葉が忘れられません。「本尊の内刳に桂昌院さまのお名前を見つけた時には手が震えました」。

 これら諸仏を次の世代に大切に繋げていかなければなりません。