護国寺と大聖護国寺

 大聖護国寺は、群馬県高崎市の西、小高い丘陵地に位置し、かつては東国に五十三ヶ寺の末寺を有す地方本寺でした。この地方の寺院から、護国寺の初代住職が迎えられています。また、護国寺は開山当初「大聖護国寺」と称していましたから、寺名からも両寺の深い結びつきを知ることができます。

 

開山八百年記念事業
 大聖護国寺は、正式には「神通山遍照王院大聖護国寺」と称し、建保四年(1216年)高野山清浄心院より東国へ下向された定弘和上によって上州八幡(群馬県高崎市八幡町)の地に開山されました。平成28年(2016年)に開山八百年を迎え、その記念事業として客殿の新築に着手し、昨年11月12日(日)、県内外の御寺院、関係者、また多くの檀信徒のご参列のもと落慶式を迎えました。当日は御来賓といたしまして護国寺の真光尚道さまに祝辞を賜り、その中で両寺の関係について詳細に解説していただき、熱心に聞き入り大きく頷く檀信徒の姿がみられました。

 

護国寺とのご縁
 当山と護国寺との関係は、今から350年ほど前、亮賢僧正(当山第二十四世)が桂昌院さまに招かれ、護国寺初代住職として迎えられることに始まります。桂昌院さまは、若い時から亮賢僧正を篤く信頼していました。江戸と上州の地は離れてはいましたが、折々に亮賢僧正のご祈祷を受けていました。その様子は、現在に当てはめればあたかもご自身の掛かり付けの主治医のような強い信頼と繋がりでした。綱吉公が将軍としての重責を担うに当たり、母としての務めや責任の重圧、今後に対する多くの戸惑いがあったことでしょう。亮賢僧正を上州より江戸の地へ招くということは、何よりも桂昌院さまの心の平安のためだったのでしょう。以来、亮賢僧正は桂昌院さまの側で、護持僧としての役割を果たしていくことになります。

 

 

亮賢僧正像

大聖護国寺には、亮賢僧正の肖像が伝わっています。彩色は部分的に剥落し、左指、右手持物等欠損部分も見られますが、眉を下げじっと一点を見つめる視線、右手を上げ、左手を腰に添え、朱の衣を纏うそのお姿は、護国寺に伝わる肖像画とほぼ同じ構図となっています。最近の調査で、その内部に残された文書(胎内文書)の様子が分かってきました。胎内には、亮賢僧正像が仁和寺で伝授された重要な儀式の文書が納められていたのです。この文書は、護国寺の新義真言宗の流れを確たるものとする大切な文書でした。恐らく亮賢僧正遷化(貞享四年1687年)後、弟子あるいは桂昌院さまご本人によって前住の大聖護国寺に納められたものと思われます。

 


 

 

大聖護国寺第五十四世住職 飯塚秀譽