護国寺と大聖護国寺 (3)

〜桂昌院様寄進宝物〜

 大聖護国寺は、群馬県高崎市の西部に位置し、護国寺初代住職である亮賢僧正が、江戸に移る前に住職を務めていた寺院です。桂昌院様とのご縁も深く、寄進された宝物も多く残されています。火災や無住の時期もあり保存状態は良好とは言い難いのですが、仏像42体、宝剣、釣り灯籠、掛け軸、手箱、仏具、憧幡などが今に伝えられています。  

 

 この寄稿では護国寺と桂昌院様にご縁のある宝物等について2回にわたりご紹介してきました。第3回目となる今回は不動三十六童子、宝剣、釣り灯籠、興教大師像についてご紹介いたします。大聖護国寺に残された桂昌院様に由来する宝物の多くは延宝二年(1674年)に寄進されました。この延宝年間は、綱吉公と共に館林藩江戸屋敷に住まわれていた時期に重なります。

 桂昌院様の館林藩江戸屋敷時代の様子は実はあまり知られておらず、館林藩時代のご様子がわかる数少ない記録と言えます。

 

【不動三十六童子】桂昌院寄進 延宝二年
 不動三十六童子は、延宝二年桂昌院様により寄進されました。不動三十六童子は『仏説不動経』に不動明王を護持する眷属として説かれます。不動明王の眷属といえば八大童子が有名ですが(例えば高野山に伝わる運慶作八大童子)、三十六童子はかなり珍しい作例と思われます。身の丈は約55㎝で、多くはふっくらとした童子形で表されますが憤怒相の童子も見られます。

 

 各童子の持物はその功徳により異なりますが、欠落した持物も多くあります。半数以上は保存状況が悪く、手足、胴体などがバラバラに大きな茶箱数杯に無造作に入れられていました。修復過程は困難を極め、各パーツを組み合わせるところから始め、数ヶ月かかり漸く一尊々々の御姿が定まりました。5年ほどかけて全ての修復を終える予定ですが、12月現在で六体の童子が修復を終え戻られています。

 桂昌院様は不動堂も寄進されていますので、当時は不動堂の中に五大明王並びに三十六童子が並んでいたと思われます。かつての様子は知るべくもありませんが、近い将来、本堂おいて再び五大明王を取り囲むように三十六童子が鎮座する場面を想像するだけで胸が高鳴ります。

 

 

【宝剣】

 桂昌院寄進(延宝年間) 宝剣は、長さ約150cm、手元は三股杵を型取り、鞘には金箔が残ります。

 

【釣り灯篭】
 修本庄宗資寄進(延宝年間) 本庄宗資氏は桂昌院の弟にあたります。円形の釣り灯篭の正面には徳川家の葵紋、背面には本庄家の九つ目結紋が型取られ「願主 本庄宗資」と刻まれます。

 

【掛け軸二幅】

 桂昌院寄進(延宝年間) 明國仇英青緑山水画二幅 囲碁を打つ者、子供と遊ぶ者、牛車に乗る長老など雅やかな風景と日常が生き生きと描かれています。

 

 

【興教大師坐像】桂昌院寄進(延宝二年)

 興教大師像の内刳(うちぐり)に、「延宝二年 館林藩主綱吉 御母儀桂昌院寄進」と記されています。興教大師坐像は、通常の場合弘法大師坐像との一対で本堂内陣に安置されますが、残念ながら当寺には弘法大師像は現存しません。

 

 このように、大聖護国寺には桂昌院様寄進の宝物が多数伝えられています。この他、護摩堂や客殿なども寄進建立されましたが、天保年間の大規模な火災の憂き目に遭い、隆盛を誇った伽藍は灰塵に帰しました。これら艱難辛苦を乗り越えた仏像・宝物を次の世代に確実に伝えるために、修復・保存に全力を尽くしたいと思っています。  本堂改築・仏像修復などの整備を進めている中で新たに判明した事実も数多くあり、桂昌院様の大聖護国寺に対する思いに対し改めて感謝の念を感じる次第です。これも、亮賢僧正と桂昌院様との強い信頼関係と絆の証と言えます。

 亮賢僧正は大聖護国寺の住職を勤め上げたの後、天和元年、音羽護国寺の初代住職として迎えられます。

 桂昌院様の護持僧として勤めを果たすことになります。